1週間前に少しココに書いた産経新聞の記事は "中"編でしたが
今回の "下"編でも、マイケルの言及ありあり
ニュースサイトの記事って結構速いペースで削除されちゃうんで、
やっぱ 上~下をとおしてマイケル関連の部分などを抜粋しますわ。
※表記を一部変えてます
※全文は各リンク先をご参照
【静岡人語り】 ダンスアーティストの木野正人さん(46) - 産経新聞
"上" 編より
◆ジャニーさんに認めさせた写真1枚で想像するダンス(
http://www.sankei.com/region/news/150220/rgn1502200001-n1.html)
僕のダンスは、コピーするというよりも その人になりきって想像するとこんな動きをするだろう、というのが出てくる。
当時は、マイケル・ジャクソンにしてもダンスの映像なんてありませんから、写真1枚から想像する癖がついてました。
先に情報を入れるよりも、自分の中で想像を練る時間というのが非常に重要だと思いますね。
ダンスは自分のパッションを放出するものですから、それがない状態で踊ってもね。
結局売れる・売れないというのは周りが決めることですから、自分の力量だと思っちゃいけない。
外界の環境にかかわらず、自分を常に良い状態を保つことを考えさせられましたね。
"中" 編より
◆マイケルの前でパフォーマンス 「やっと近づけた」と実感できた(
http://www.sankei.com/region/news/150227/rgn1502270003-n1.html)
マイケル・ジャクソンの曲を聴き始めたのは中学生の頃でした。
パフォーマンスでは "Billie Jean" が一番好きです。軍手に両面テープでスパンコールを貼り付けてまねしていました。
初めて生でマイケルを見たのは、1987年に日本から始まった 「BAD World Tour」。
東京公演の2日目に、ジャニーさんから 「今日最高にいい席があるから」 と電話があって、藤枝の実家から後楽園球場に直行しました。
自分の想像をことごとく裏切るようなライブで、圧倒され続けましたね。 キレのあるダンスだけじゃなく、マイクを上に離していってもずっと通る声。 プロのパフォーマーとして、ひとつの芸に対する完成度の高さを見せつけられました。
むかしは全く理解できなかった、マイケルの 「肉は血が汚れるから食べない」 という話も、「こういうショーをするためには準備が必要なんだ」 と納得しました。
「新しい世界の動きをいち早くマスターしたい」と考えて、21歳のときに単身でLAにダンス留学することを決めました。
最初はマイケルの妹ジャネットのダンサーのマネジメントをしていた黒人男性に会って、ダンスのスタジオを紹介してもらいました。 自分でもスタジオを見に行って、ひたすらダンスの授業を受ける毎日。
’91年にはLA最大のエージェント・BBAの新人オーディションに合格できました。合格者は500人中5人で、アジア人では僕だけ。
僕はものすごい大技があるタイプじゃなくて、トータルで勝つ先発完投型のダンス。
オーディションを見に来ていたブレイクダンサーのカリスマ、シュリンプ・ブーガルーさんから日本語で 「キミがイチバーンね」 と言われた時は、本当にうれしかったです。
何とかマイケルとつながる仕事をしたくて模索を続けていた'93年、全米黒人地位向上協会(NAACP)の年間エンターテイナー部門でマイケルの受賞が決まりました。
知人のユダヤ人弁護士からそのプロデューサーを紹介してもらって、自分のビデオを送ったら
「黒人以外でこういう動きをする人は見たことがない」
と好評。さらに
「授賞式のマイケルの功績をたたえるコーナーで、シルエットダンスを踊ってくれないか」
と言われ、「もちろんやります!」 と即答しました。
自分の中ではマイケル本人に対するプレゼンテーションのつもりだったので、マイケルが 「ん?」 と思ってくれるような動きをしたかった。
足で自転車の動きを表現する 「バイスクル」 といった技をキメながら、
「マイケルがやりそうだけど、まだやっていない動きをやろう」
と、足を逆方向に動かすオリジナルの技も入れました。
式では、マイケルの前で自分が踊る映像が1分間ほどOAされて、アメリカに行ってから 「やっとマイケルに近づけた」 と実感できた瞬間でしたね。
"下" 編より
◆「ベリークリエーティブ!」 振付師冥利に尽きる瞬間(
http://www.sankei.com/region/news/150306/rgn1503060010-n1.html)
マイケルの 「DANGEROUS」 というアルバムのプロモーションが終わった’93年ごろ、「いったん空気を入れ替えよう」 と日本に帰ることを決めました。
帰国後はトシちゃん専属の振付師として、自分自身もダンサーとしてステージに立っていました。
仕事の幅を広げるというよりも、マイケル側からいつオファーがあっても動けるように、自分の身を軽くしておきたいという思いでしたね。
その後もなかなかマイケルとつながる仕事はできなかったんですが、2007年3月にマイケルが来日してファンと交流するイベントで、ゲストパフォーマーとして出演することができました。
"Thriller" のイントロで、特殊メークで90歳になった自分のマスクを付けて登場し、だんだん青年になっていくというストーリー。
見せ所ばかりを盛り込んだダンスなので、力を抜く場所がなくて、心臓が飛び出るかと思うくらい疲れました。
イベント後に楽屋に通されると、マイケルが入ってきた僕を見るなり、興奮した様子で
「ユーアーベリークリエーティブ!」
「最後の振りをやってくれないか」
と言われて、振り付けを教えました。
僕は、「舞台袖にハケる最後まで見られている」 と思って、退場する時にも振りを入れていたんです。
僕の動きをさらっと再現してみせるマイケルを見て、改めてすごさを感じました。
「マイケルなら、僕の振り付けを僕よりもうまく踊ってくれる」 と思っていたので、まさに振付師冥利に尽きる瞬間でしたね。
思い切ってその場でマイケルに、
「僕はあなたをネクストレベルに導くことができる」
と自分を売り込みました。イヤな顔をされるかなと思ったけど、マイケルもちゃんと耳を傾けてくれて。
最後に握手をして別れたんですが、大きくて厚い、がっちりとした手だったのが印象に残っています。
2009年にマイケルが亡くなって、2人で一緒に踊ることはもうできなくなりましたが、
「マイケルに自分の才能を認めてほしい」 という夢はかなったのかなと。
ダンサーとして活動を続けていく上で、食事も玄米菜食に変えました。
今の体重は53kgですが、いちばん自分の体が動くと感じます。
最近は、走りながらライブでやる曲を歌って、ライブの緊張感に近い状態を再現しています。
ダンサーは自分の体を思い通りに操るのが仕事ですから、どう体を操るかという探求は絶対に必要です。 やっぱり自分が自分らしくパフォーマンスし続けることが第一ですね。
まだまだマイケルの動きに対する探求は続いています。
ダンスの映像を見ていると、発見がいっぱいある。
そこに自分のオリジナルの動きを足していく、それが一生続くんでしょうね。
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