ブライトン・ジェームス氏(26)は、4歳からアメリカのTVで活躍するドラマ俳優。
どうやら “ジェームス”姓には近年改名したようで、
子役時代の芸名および本名は
ブライトン・“マクルーア”君。
そんなマクルーア姓時代での、マイケルとの交流話を語ったインタビュー記事を
例によってテケトーだけど和訳せり。
※違訳の苦情はいっさい受け付けません~ だって英語白痴だもん (胸張
Q: どのようにしてマイケルと会えたのですか?『Family Matters』 (TVドラマ '90~'97)に出演していた5歳ごろ、映画製作会社の女の人に引き合わせてもらったんだ。
僕が書いてきた手紙を、渡し損じられる事のないよう両親が直接マイケルに手渡してた。
僕はというと、「マイケルの音楽が好きだ」ってマイケル本人に言えたよ。
Q: 5歳で、すでにファンでした?言葉を話し始めるよりも前からマイケルのすべてが大好きだったよ。
それってありえない事なんだけど、皆と同じようにマイケルを愛しく思ってた。
Q: で、連絡があったんですよね!マイケルが手紙の返事をくれたんだよ!
アルバム『DANGEROUS』の "Will You Be There" のミュージックビデオ撮影の時に来ないかって誘われて。
そのパフォーマンス後のマイケルに会って、写真を一緒に撮ったんだ。
いとも あっさり。
<'91年11月16日 『MTV10周年記念ライブ』 収録2日目>
Q: その後はいつ会いましたか?その数ヶ月後、レイヴン・シモーンと僕は、『NAACPアワード』で年間最優秀アーティスト賞をマイケルに手渡すプレゼンターを務めたんだ。 子供の僕たちが!
バックステージで僕と両親はマイケルと話せたんだけど、彼の自宅へ招待してもらえる事になって。
<ブライトン君の記憶違いで、実際は1年2ヶ月後・'93年1月16日>
ネバーランドへ最初に行った時は、父と一緒だったよ。
マイケルの他の家族も何人かいて、2日間過ごした。
マイケルより若い従兄弟2人と友達になれてね。僕より少し年上で、今でも兄弟みたいな関係なんだ。
その後もマイケルとはTELで連絡を取り合って、両親と年に数回ネバーランドに行ってたよ。
マイケルは、自分の友人と見なした人間には牧場を開放してた。
彼自身が不在中でも、僕たちはネバーランドに滞在しに行くことが出来たんだ。
僕がこれまで出会ってきた人間の中で 最高の気前の持ち主だよ。
Q: 部屋はどんなでしたか? サーカス小屋みたいな? それとも宇宙船みたいな?いや、そんなんじゃないよ。 至ってフツーの部屋だった。
マイケルの家はとてもシンプルで、温かくてね。
美術館みたいとかホテルみたいとか、そういうんじゃなくて。 オールドスタイルの大きなコテージみたいなんだ。
Q: ネバーランドでの一番の思い出は?橋でつながっている4つの塔と大きなお城があってね、それぞれの陣地には水鉄砲の狙撃手たちと "名スナイパー" がいたよ。
そこらでは常に音楽が流れていて、動物たちも素晴らしかった。
僕たちは 我がもの顔で自由に過ごせて、とっても平和だった。
ネバーランドの門から出る時、僕たちは呻いたものだよ。
「あぁ… これで現実に戻らなきゃならないのか」。
Q: ネバーランドに最後に行ったのは?16歳か17歳のころ、マイケルが自分の従兄弟とクリス・タッカーと一緒にいた時。
2週間ほど滞在したよ。
Q: ネバーランドは、公園として我々のもとに還されるべき? 私有財産であるべき?僕が行ってた時と同じような状態に維持していって欲しい。
毎週、マイケルは重病の子供たちを乗せたバス数台分を招き入れてた。
ディズニーランドやイベント会場や公園に行くといった ごく普通のことが病気で出来ない子供たちが、ネバーランドで数日間過ごせるようにと。
マイケルが病気の子供たちに門戸を開け放っていたような行いが引き継がれていく事を、僕は望んでいるよ。
Q: あなたの音楽について、アドバイスを受けましたか?iPodが出始めの頃、僕が持っていたやつでマイケルは初めて見たんだ。
iPodをクールだと気に入ったマイケルは、そこに入っていた僕の曲を聴いて とても為になるアドバイスをくれたよ。
僕のTV出演や曲について、いつもマイケルはアドバイスをくれた。 その反面、僕が子供らしい生活を送ることについても熱心で。
マイケルは僕がちゃんと幸せでいると解ってはいたけど、もっと子供であることを僕に堪能してもらいたがってた。
Q: いちばん大切な想い出は?忘れがたい想い出は、2つ。
1つは、9.11の犠牲者のためにマイケルが書いた曲を歌うよう頼まれた時。
マイケルや セリーヌ・ディオンや インシンク,アッシャー,マライア・キャリー,デスチャと一緒にね。
それらシンガー達とマイケルのコーラスに加わるよう頼まれたんだ。
彼らと歌うために僕は、ワシントンに向かったよ。
マイケルとステージに立って一緒に歌った事は、決して忘れることのない経験だな。
<'01年10月21日 『UNITED WE STAND - What More Can I Give』>
2つめは、ネバーランドでの夜、僕たちが起きていた時のこと。
他のみんなは寝静まっている中で、僕とマイケルは大きな暖炉の前の椅子に座り、夜どおし語らったんだ。
Q: 彼の死を知った時、どこにいましたか? 自宅にいて、何も知らずにいたら 父がTVをつけなさいと叫んだんだ。
ニュースを観た時、とてもじゃないけど信じられなくて。事実だと理解するのに時間がかかったよ。
マイケルとの関わりを知る知人たちからのTELが30本来た。
Q: マイケルとの最後のコンタクトは?僕がマイケルと最後に話したのは、数年前の裁判の直前だった。
裁判の前の年に会って、しばしの時間を過ごしたよ。
<'02年6月15日 英ファンイベント 『KILLER THRILLER Party』>
Q: 彼の死後も取り巻いている狂気をどう思いますか?人々が、マイケルの人生に対し 理解に努めることを僕は望んでる。
人々が、マイケルにわずかでも平穏を与えてあげることも。
いつかマイケルとTELで話していた時、なぜ人々が自分をそんなふうに扱うんだか解らないと突然泣き出しそうになった事があるんだ。
『マイケル・ジャクソンたる為の代償なのだ』 という事を、彼自身 完全に理解していたけどね。
Q: マイケル・ジャクソンを総括すると?経験上で言って 僕の生きかたの模範、だよ。
マイケルは、ケタ外れなまでに私生活で数々の介入と困難に直面してきて…
知りもしない人間についてベラベラ語れる人々には、まったくもって驚くほかないよ。
なのにマイケルは、気前が良くて 自分のことよりも他人の幸福を願うような慈悲深い人だった。
タブロイドが競って書く悪趣味なネタやジョークに振り回される事なく、マイケルは素晴らしい男性だったという事を人々にぜひ認識してもらいたい。
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2009年 公式サイト掲載メッセージ
++++++++++++++++++++++++ 友人マイケル・ジャクソンに神のご加護を。
僕は浮上できずにいます。 マイケルは、僕ら家族にとって大きな存在だったのです。
彼の持つ愛情・配慮・威信・親切心は、本当にすばらしいものでした。
マイケル、僕はあなたがいない事が寂しくてなりません。 永遠に愛しています。
僕の人生にいくつもの最高のときをくれた事に感謝です。
ブライトン
これはついでに
NAACP Awards'93 ビル名義の楽屋にて
(終盤ごろブライトン君たちの姿も)
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